5月4日(金)は十三の第七藝術劇場へ。 ハンガリー映画「ニーチェの馬」を見に。 前に「孤独な惑星」を見に行ったときに、始まる前に流れた予告で、頭の中をカリッと引っかかれたから……白黒の画面の中の凄まじい砂嵐と疲れ切った老人の顔になぜかもっと見たいと思わされたから、前売り券を買っておいたのです。 かなり訳わからん、寝てしまう映画の可能性もあるので、さすがにこれはダンナを誘えなかった。
休日とはいえ、この手の映画に30人も観客がいて、なんかびっくりした(自分のことは棚に上げ)。
以下、かなり詳細に、物語の核心部分を含めてネタバレします。 というか、ある程度事細かに語らないと、この映画のもつ凄味は伝えられない……。 ……映画を見ながら、あまりの描かれているものの最低限な極小世界っぷりに、目に映る内容をいちいち自分の中で言葉に置き換えていった、ということもある。
まあ、ストーリーがあるといえばあるし、無いと言えば無い。 宣伝の惹句でも語られてるので隠さずにバラしますが、ゆっくりと世界が滅びる話です。
日本版のタイトルになっているニーチェと馬のエピソードを、浅学にして私は知りませんでした。 今から百年少々前、哲学者ニーチェはトリノの広場で御者に鞭打たれる馬を見て、泣いてその首にすがりつき、そのまま発狂したということらしいです。
冒頭のナレーションの後、映される馬と御者が、そのエピソードのものかどうかはわからない。 砂嵐の中を、延々と老人と馬車は進む。
さて、この手の純文学ともいうべき映画に慣れた人ならともかく、芸術的素養もアンテナもろくに持たない自分には、これ、けっこう忍耐を試される映画でした。 とにかく長回し! 延々と単純な移り変わりのない画面が続く。もうダメかも、と思う寸前のギリギリのラインでいつも画面が切り替わっていました。 いや、そういう挑戦的な試される感覚って嫌いじゃないですけど。(そんなふうに感じるのは自分だけかもですが)
馬車はやがて住処に戻る。 凄まじい砂嵐が吹きすさぶ荒れた土地。 井戸と、馬小屋と、小屋。小屋から見える丘の上の一本の木。 それがこれ以降映し出される、この物語の世界のすべて。 小屋の前で待ちかまえていた娘が馬を馬車から外すのを手伝う。 紐をほどき、革ひもの金具をひとつひとつ外し、くびきを持ち上げ馬の首から抜き取る。 馬小屋の戸を押さえている石を足で動かしてずらし、留め具を外し、かんぬきを抜き、戸を開け、石で押さえる。 父は馬を柵の中に入れ、娘は馬車を小屋の中に転がし入れ、馬を繋いでいた長い木を外す。 そして娘は二股フォークで汚れた干し草をどかし、新しい干し草と水を馬に与える……。
……と、こういったふうに、文字で書けば「馬を馬車から外して世話をする」の一言で済むべき行為、普通の映画の中で省略されるべき行為を、ひたすら映し続ける。 それはたぶん何百回と繰り返されてきたであろう、日々の暮らしの行い。 映画というハレの存在には似つかわしくないとも言える、何ごともないケの羅列。
父は左手が不自由らしく、ベッドに腰掛け、娘が服の着替えを手伝う。ズボンつりの紐を滑り落とし、ズボンを脱がせ、チョッキのボタンを外して逃がせ、シャツのボタンを外して脱がせ、靴を脱がせ、家の中用のズボンとシャツと上着と靴を履かせる。
読んでる皆さんもうんざりでしょうが、書いてる方もうんざりします。でもこのうんざりする日常をはじめに描き出しておかないと、話の展開をいくら説明しても通じないと思うのです。
疲れて帰った父はそのまままどろみ、娘は小屋の片隅のかまどにかけられた鍋に沸いた湯を、小さな鍋に移し、ジャガイモを二つその中に入れ、イスに腰掛け、窓の外の砂嵐をただじっと眺める。 年齢的に若いであろう娘は、しかし、毎日の貧しい暮らしの中で華やいだ若さをとっくの昔に散らし尽くし、笑顔というものを何年も忘れているように見える。 言葉さえも忘れたかと思われたが、鍋の中のジャガイモを木の杓でこづいた後、木の皿に移し、「食事よ」と一言発する。 二つの木皿に茹でたジャガイモを一つずつ移し替え、塩の入れ物を置き、他には何一つ、フォークやスプーンさえ無い食卓。 台所に積み上げられた様子から、たぶん、毎日ジャガイモのみ。 その貧しい食事を、父は力強く口にする。皮をむき、片手で握りつぶし、時折塩をまぶしながらふうふうと口にする。 瞬く間に平らげると、父はイスに座り、窓の外を眺める。それがその家の唯一の娯楽であるかというように。 娘はもう少し慎ましやかにイモを口に運び、たった一つのイモの半分少々しか食べないうちに、残りを父の皿の皮と一緒にゴミ置きに運ぶ。
夜、かまどの火を細い薪に移し、ランプに火を付ける。 小さくなったかまどの火は、鍋の湯を温め続ける。
もう寝なさいと父は言う。 小さな小屋で部屋を分けているはずもなく、それぞれが壁の一隅を占めるベッドに。 落とされる灯り。 風が唸る中、父が言う。 「木食い虫の音がしない」と。 数十年(本当は具体的な年数を上げていたけれど失念)でこんなことは初めてだ、と。 物語の1日目。 ただただ、ひたすら貧しく変わり映えのしない生活が続く、と思わせておいて、観客に示された「異変」の始まり。
2日目。 朝、娘は家の前(といっても数十メートル離れている)井戸に水を汲みに行く。凄まじい砂嵐の中、両手にバケツを提げ、髪を風になぶられながら、よろよろと小屋にたどり着く。 父の着替えを娘が手伝い、小さなグラスに蒸留酒(おそらくは自家製の)を2杯飲み干し、父は馬を馬車に繋いで仕事に出ようとする。 しかし、強烈な砂嵐の中、馬は決して動こうとしない。 父娘は諦め、馬を馬小屋に戻し、父は部屋着に着替える。 この時は気付かなかったけれど、この時点で親子の生活の糧である馬が失われている。
かまどで湧かした湯で洗濯をしていると、隣人が訪れる。 正直、この3人目の登場人物が出てくるまで、この世界には人間が二人しかいないのかもと思っていた。 隣人と言ってもどれだけ離れているものやら。隣人は空の瓶を手に、蒸留酒を分けてくれと言う。 そして、町は砂嵐でやられてしまった、というが、父は聞き流す。 隣人はいままで劇中で話された言葉の百倍も蕩々と話し続ける。神だの、理想だの、裏切りだの、堕落だの、そういう言葉を。 父につまらんと一喝され、隣人は小銭を置いて立ち去る。
3日目。 父ははじめから仕事着に着替えようとしない。
ジャガイモ一つの食事をしていると、父が窓の外の光景にうさんくさげに顔をしかめる。 流れ者だ、追い払え、と。 一本の木が立つ丘の向こうから、一台の馬車が降りてくる。男女十名ほどを乗せ。 彼らは井戸に歓喜する。 追い払おうとした娘に、若い女だと喜び、一緒に新大陸へ行こうと誘う。 娘が断ると、一番落ち着いた男が水の礼だと一冊の本を渡し、馬車は去る。
夜、繕い物を済ませ、娘は本を開く。てっきり文字が読めないかと思っていたのだが、指で一文字一文字追いながらだが、文を読む。 それは本に印刷された文か、誰かが見開きに書き込んだ文かはわからない。娘がたどたどしく読む文は、教会の堕落を嘆いたものだった。
4日目。 娘が悲鳴を上げる。 井戸の水は枯れ果てていた。 親子の生活をかろうじてつなぎ止めていた水が失われた。
娘は馬の世話をする。が、馬は飼い葉を食べず、水に口も付けない。
父は娘に荷物をまとめろと言う。ここではもう暮らせない、と。 娘は裁縫道具などの入った箱の一番上に写真を入れる。おそらくは亡き母の。 服と、ジャガイモと、毛布と、煮炊きの道具と……小さな荷車一つに家財道具全てが乗ってしまう。 馬車は馬小屋に置いたまま、娘が荷車を引き、馬はそれにつないで、親子と馬はゆっくりと丘を登り、その向こうに消える。 だがしかし、やがて丘の向こうから、親子は再び姿を現す。 無言で荷物を一つ一つ小屋に戻す。 馬を馬小屋に戻し、娘は黙って窓から外を見つめる。 砂嵐の中、時が止まったように娘の顔が窓に浮かび続ける。 親子が何故戻ってきたかは最後まで示されない。
5日目。 馬小屋の戸を開け、馬の姿を見た親子は、ゆっくりとそのまま戸を閉める。
夜、ランプに火がつかない。 油は充分入っているはずなのに。 何度かまどの火を移しても、まるで強固な意志によって阻まれているように、灯りはつかず、火は消える。 ついにはかまどの種火も消えてしまう。 私は、事ここに至ってようやく気付く。 ずっと百年少々前の、とある貧しい地方の、とある貧しい親子を、ごく普遍的な世界から切り取って描いていると思っていたけれど、彼らは非常に特殊な状況に置かれているのではないのか、と。 パラレルワールドというか。 ここは「滅びゆく世界」ではないのかと。
長く続いた砂嵐はやんだ。 だが、おそらく、親子にここを逃げ出す力はもう無い。
6日目。 光が失われた暗い小屋の中、親子の顔と手元がぼうっと浮かび上がる。 皿の上のジャガイモを前に、娘はうなだれる。 父は「食べろ」と言い、一口かじる。 火も水も無く、生のジャガイモはガリリと軋んだ音を立てる。 父もジャガイモを置き、うなだれる。 私は、どこかでこんな宗教画を見たことがあるような気がする、と思う。 そして、画面は闇に閉ざされる。
2時間半。単調に描き出されるづけるごくごく最低限の絵で、終わってしまった映画。 パンフレットをペラペラとめくって、天地創造の逆回しという表現が目に入り、ストンと落ちる。 はじめに主は「光在れ」と言われた。それが第1日。 だから、あの世界で、光は最後に失われたのだ。
そして、私はあの親子が何故あのような目に遭わなければならないのだろう、と思っていたけれど、あの小さな世界の外でも、世界は滅びていたのかもしれない、とパンフを見て思った。
面白かったとか、良かったとかは、言えない。 ただ、ああ、体験したな、と。 頭に、砂嵐と、疲れ切った父子の顔がくっきり残っている。 それだけ。
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