長くなってたので、トークショーは別記事で。
絵画展見終わって、遅い昼(早い夕食?)を取って、5時前に上映の会場へ。 なんでも朝から並んでいる人がいて、ずらーっとなっちゃったので、整理券のための仮整理券を渡しているとかで、70人キャパのところを66番の券を渡されました(汗) あんまり早く行くとお店の迷惑になるかな、と自重したのが徒になりました。ていうか、みんな気合い入りすぎだよ。 予定時間に番号順に並んで整理券もらったけど、自分の後ろにまだ2〜30人は並んでいたような気が。(主催スタッフのブログ見るとやはり100人超えだったらしい) それにしても、オシャレで若くてキレイなお嬢さんたちばっかりでしたよ。なんだ、やっぱり浮くんじゃないかよ、自分。 CZ2で綾野さん急に注目集めちゃって、ギャル文字とか小文字使ってそうな女の子がどっと来るのかなと思ってたんだけど、全然そんなことなかったです。皆さん映画とかアート作品が好きそうな、センス良さげなお嬢様方でした。まあ時間が遅いから、あまり若年齢な人は来づらかったということはあるかも。というか、そもそも、監督の作品のファンとか、主演やヒロインの役者さんのファンの可能性も考えようよ、自分。(我ながらひどい偏見と差別だとは思うんだけど、CZ2公式ブログとかで、絵文字・小文字乱舞なコメを見るとどうしても引いてしまったもので) しかし、自分って、どこへ行ってもどんな場にまぎれても、常に違和感を感じずにはいられないようです。
場内は予備のスツールとかだいぶ出したみたいで、立ち見の人はほとんどいなかったみたいです。自分が座ったのは高めの木のスツールで、正直座り心地はよろしくなかった。 上映機器は単眼のプロジェクターで、スクリーンサイズもそれほどでもなく、正直職場の視聴覚室の設備とあまり変わらない気が。キャパはシネヌーヴォよりは大きいかな。ワンドリンク制だし、イベント性の高い上映会場なんだろう。
さて、だらだらと書いてきましたが、映画本編感想です。 まず、金子雅和監督の短編2編上映。 「石川九楊 源氏物語五十五帖展」と「鏡の娘」
「石川〜」は同名展示会で流されたミニドキュメンタリー。 もうこれは内容うんぬんより素材である石川氏にぶったまげる。 書家として名前だけは聞いていて、新聞やら雑誌やら、電車内のマナー広告やら、いろんなところで一日一文字みたいにして見かけてはいたのですが……。 とりあえず、映し出される源氏物語の一節が、とにかく読めない。 昔のかなで崩し字で、というレベルじゃなくて、もうあれだ前衛芸術の域。線がうにうに波打ったり、ひたすら髭みたいにはらったり、墨が枯れるまでグルグル渦巻き書き続けたり。「書道とは過程」なのだそうです、はい。
「鏡の娘」は「グリム童話「ラプンツェル」に材を得た、母娘の物語。」(公式サイトより) この説明一文で先がすっかり読めちゃうというのはいかがしたものかとは思う。 まあ、寓話なのだな、と。 王子様がえらくしょぼくれた中年だったけど(笑) 母親が娘を家から出さずに育て、美しく育った娘に自分と同じ格好をさせ、毎朝化粧のたびに向かい合わせの娘に一挙手一投足同じ動きをとらせて、「綺麗」と微笑む。 ……わけなのだけれども、この母親が若くて美しく、娘さんと容貌にそれほど差がなかったのですよ。普通に鏡見ても自己満足できるんじゃないかみたいな。一卵性双生母子的な画面の美しさはあったのだけれども、母親が失われた己の容色を娘に求めるという感じにもっとなっていたら分かり易かったんじゃないかな。 まあこういう映像美を追求するタイプの映画にわかりやすさを求めるほうが無粋だとも思いますが。画はきれいでした。古い家屋のじとっとした雰囲気が良いです。
「すみれ人形」はDVDが発売されたところなので(ていうかこの上映会が発売記念だし)ネタバレ隠します。
これも寓話ですね。 出てくる人物みんな狂ってるし。 ありえない、おかしな世界での、畸形たちの饗宴。 充ち満ちる水の音と緑の気配。 古ぼけた異境に浮かび上がる、けばけばしくも崇高な色彩。
こういう場に出くわすたびに、自分は映画とかほとんど知らなくて、サブカルチャーも知らなくて、芸術も分からなくて、ほんとなにもかも中途半端で、頭悪い人間だと思い知らされる。 かといって、他の領域に向かい合おうとすると、そこでも物知らずの半端もの。 自分はどこ行っても疎外感を感じずにはいられない、半端な人間だとしみじみ寂しさを噛みしめながら見ておりました。
せめて出来ることは、自分のちゃちなアンテナと琴線に引っかかったものを必死に拾い集めるだけで……。 それで言えることは、この映画は美しかった。 どこまでも日本的な光景。山と森と、川と滝と、鄙びた灰色の温泉街。 畸形たちの物悲しい芸事と、猥雑な色彩のエロス。 血の色。肉の色。
そして、フェティッシュって言葉、ここで使ってもいいのかなあ。 他のふさわしい言葉を見つけられなかったんだけど。 とても、フェティッシュな映画。 (……っと、今ちょっとぐぐったら、フェティッシュって対象物そのもののことみたいだから、この場合フェティシズム的なと言い直すべきか)
若い女性の右手にのみこだわり、殺して切り取っては大事に仕舞い込んでいた男。(ちなみに綾野さんの役。開始10分で死亡退場(笑)) 残された妹の右手を持ち歩き、消えた体を追い求めてさすらい、山奥の温泉街の寄席で妹の名を付けた人形に「私の体はどこ!?」としゃべらせる腹話術師。 樹木の持つ生命力を使って人の失われた手足を取り戻そうと、人に接ぎ木をする実験を繰り返し、恋人を生き返らせようとする樹木医。 事故で失った手を取り戻したいと願う元ストリッパー。 もうこのあたりでお腹いっぱいなんですがね。 寄席の小人の奇術師とか、ストリップ劇場のオカマさんとか、畸形の人々をカメラが追うこと自体、壊れた物に対するフェティシズムだなあと。 頭の中に、たまの「カニバル」がエコーしました。
腹話術師が踊り子の失われた右手の代わりとなった二人羽織のストリップは倒錯的でなんとも艶めかしい。 日本舞踊の演目にあるよね、文楽人形を動かすように、娘姿の人が人形となって、動かされる。あれを思い出した。 ところで寄席のおっさん、ほんとにあの右手で頼んじゃっていいのかね?(笑)
最後のシーン、メインキャストがみんな「壊れて」しまった後、とあるものを炎が包み込むのだけれど、それがどうしても自然発火にしか見えなかった私。 あとのトークショーでその辺り聞いてみたかったけど、そういうのは観客に委ねられるものなんだろうか。
万人向けとはいえないけれど、好きな人にはとても魅力的な映画だと思います。 そして、綾野さんが出演する作品の多くが、見て楽しめるものであることが、しみじみと良かったなあと思うのであります。
トークショーは別記事で。
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