月曜に綾野さん出演の映画「孤独な惑星」を見に行ってきました。 十三(じゅうそう)って初めて降りたけど、改札の真ん前まで飲み屋と食べ物屋がひしめき合っていて、翌日休みの仕事帰りの人たちがどんどん吸い込まれていました。 映画館のあるのも雑居ビルで、同じフロアにボーリング場。音が心配だったけどさすがにそれは大丈夫。百人近く入れる立派なスクリーンでした。(30人満員御礼とかに慣れすぎだよ自分) なんか意外と男性が多いと思ったら、メンズデーとかで男性千円の日だったのね。男女比率が2:3くらいだった。
きちんとパンフレットがあることにびっくり。エレクトロニックガールも渋谷もパンフ無かったから、ミニシアター系の映画って無いもんだと思っていた。 で、見終わってから読んでみて、いろいろ書いてあることと、自分が見て感じたことが違いまくっているという事実がまた生じるわけで。 綾野さん言うところの「作家性の強い」作品、解釈が見る側に委ねられる部分の多い作品ってのはどうしてもそうなっちゃう。 まあ、自分の頭がスカポンタンなのはしようがなく……いろいろなことが配置されているっぽいのはわかっても、いろいろと拾いそびれて、えっちょっとタンマ、さっきのとこもっぺん見せて、と思えどかなうべくもなく。こういう作品こそ手元に置いて繰り返し見返したいんだけど、たぶんソフト化はされないんだろうなあ。
以下、ちみっとネタバレ。 都会で一人暮らしの(たぶん20代後半の)OLのところに、マンションの隣の部屋のカップルの男性が、痴話げんかの果てに転がり込んできて、ベランダに住み着く……というのが雑誌の紹介などで事前にわかるストーリー。 どこの猫じゃい。
始まって、劇伴が流れてきたあたりで、たぶん自分はこの映画好きだろうな、少なくとも嫌いじゃないなと思った。わかるわからないは別として。 恋愛映画かというと、その色は薄かった気がする。かと言ってパンフの種々の解説にあったような知的ゲームかというと、それもまた少し違う気が。 距離感とか空気感とか、ほんのりとした何か、うっすらとした温度のようなもの。夕日の暖かさと薄ら寒さと寂しさ。それをじんわりと感じる映画。
画面が、面白かった。ベランダ側から映される二つの部屋が、暖色と寒色にはっきり分かれていたり、ベランダの外にいる青年とそれを冷ややかに見つめるOLの、その画面のど真ん中を柱が仕切っていたり。
ガラス戸一枚で仕切られ、触れ合うことのない男女の、ガラス越しにやりとりされる言葉……ごく他愛のない会話とともに行ったり来たりする何かしらの「気」。 ありえない日常、おとぎ話的な状況が、淡々とした描写によって不思議なリアリティをはらむ一方で、主人公の勤める会社の描写が珍妙。だだっ広い空間の窓際にだけ机が貼り付いてるって何ごとだ。しかもBGMがチンドン屋と化してるし。 マトリョーシカな段ボールのシーンが何を意味してるのか、あれだけはさっぱりわからぬ。
なんか久しぶりに、何かの役を演じている綾野さんを見守るという視点ではなく、物語の中の、その世界に住む人物として、画面を見ることができた。そのことが嬉しい。 薄い体の、肩甲骨が好きだな〜と変態なこと考えたのは内緒。
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