観終わって建物を出て、電車に乗って車内の喧噪が耳に入ってきたとき、ああ現実に戻ってきたんだ、と思った。と同時に自分がつい先ほどまで別の世界に入り込んでいたことにあらためて気付かされた。 最近はDVDを買ったり借りたり、CSを録画したり、と自宅で映画を観ることがほとんどだけれど、映画館で観るべき作品もあるのだ、と電車の中で思った。映画館の暗がりに身を浸してこそ、画面の中にともるキャンドルの灯りの熱や明るさを真に受けとめることができるし、静かな静かな光景の中で時折強く空気を振るわせて響くギターの音を感じることができるのだから。
以下ネタバレ有り。 といっても、どういう風にこの映画について伝えればいいのだろう。 大きな出来事はこれといって起こらない。 でも主人公の中には確かに何かが降り積もっていって。 エンドロールのとき、自分はたくさんのものを受け取っていることはわかるのだけれど、それを言葉にすることはできない。
公式サイトとか各種雑誌とかチラシとかパンフレットとかで書き出されていたことを私は読み解くことはできなかった。(ていうかどれも事前にもろにネタバレしすぎだよ! 女の子のアレとか友人のアレとか駅のホームのシーンとか(涙)) 自分の洞察力とか感受性とかその他いろいろに情けなさを覚えつつ、観る側が好きに受けとめることが許される映画じゃないのかな、とも思った。 最近とある小説家が、自分の表現したいことは国語の試験問題で「この文章の意味するところを何十字以内に書け」というふうにまとめられるようなものではない、というようなことを書いているのを読んだけれど、そんなことを思い出した。 一晩経ってパンフを読み返してみて、内容がほぼ書き尽くされている「ストーリー」を見直しても、やっぱり自分が受けとめたこととは違っていた。
それよりも。 封印していたサントラを聴いて。 最後に収められたボーカル曲は劇中では流れていなかったのだけれど……。 1時間半の映画が完全に凝縮されていたことに打ちのめされた。 あの歌詞を聴いてしまった後に、何を書けというのだろう。
私が今書けることと言ったら。 雨に洗われて、柔らかく澄んだ空気の静けさとか。 芸術村の若者たちの、少しズレて、でもまっすぐな姿を見て自分にこぼれる笑みとか。 いくつものキャンドルに火をつける行為が儀式のようだったこととか。 ジッポの蓋を開ける音の強すぎる存在感とか。 都会の同窓会場の、ビールのいかにも不味そうなこととか。 最後の場面の主人公の息遣いにただ耳をすませたこととか。
ミーハーな視点から見れば。 主人公の。 ミリタリジャケットの袖のオシャレ具合とか。 ふいに飛び出す中国語や英語の響きの美しさとか。 いかにもまずそうに酒やタバコを口にするときの額の縦じわとか。 ジッポの炎を包む手の大きさとか。 よれたショルダーバッグをかけて少しかしいで歩く背中の直線とか。 海辺で投げ出された足の、膝の曲がり具合とか。 自転車で、自分の腹に回された少女の手を一瞬そっと押さえる手とか。 そんなものひとつひとつにトクリと胸を鳴らして見ていた。
この間、チラシを見ながら背に天使の羽根が見えると書いたけれど、主人公はたしかに人間で。傷ついて。 それでも日常は巡ってくる。 ほんの少しだけ変わりながら。
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